その一杯の緑茶、実は千二百年ものがたり。日本茶の歴史をたどってみる
文: Trip Japan YLP 編集部発行:Trip Japan YLP
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こんにちは!
湯呑みに緑茶をとぽとぽと注ぐ。ごくふつうの、なんてことのない一杯ですよね。でもこの一杯、実はものすごく長い旅の果てにたどり着いた飲みものなんです。今日はそのはじまりから、いまあなたの急須に入っている葉っぱまで、日本茶の歴史をゆるりとたどってみます。

はじまりは、お坊さんの荷物のなか
お茶はもともと日本のものではありません。千二百年以上むかし、海を渡って中国から来たんです。運んできたのは、勉強のために唐へ渡ったお坊さんたち。
そのなかの最澄と空海が、804年ごろ、国の使節として唐へ向かいます。805年に帰ってきた最澄が、持ち帰った茶の種をまいた、と伝わっています。日本の土にお茶が根づいた、いちばん最初のころのお話です。いちばん古い記録はなんとも具体的で、815年、永忠というお坊さんが嵯峨天皇にお茶をたてて差し上げた、と朝廷の記録に残っているんですね。天皇はよほど気に入ったのか、いくつかの地方でお茶を育てるよう命じたそうです。
ところが、正直そのあと、いったんしぼんでしまいます。しばらくお茶はごく珍しいもので、お坊さんや貴族のための飲みもの。ふつうの人が口にすることは、まずなかったんです。
お茶を連れ戻して、本まで書いたお坊さん
ふたたびお茶が息を吹き返すのは鎌倉時代。主役は栄西という禅僧です。中国で学んで、1191年に茶の種を持って帰ってきました。九州にまき、そして明恵というお坊さんに種を分けて、京都の宇治あたりで育てはじめます。その宇治の丘が、八百年たったいまでもお茶の名産地なんですから、すごいですよね。

さらに栄西は1211年、『喫茶養生記』という本を書きます。ざっくり言えば「お茶を飲んで健やかに」。日本でいちばん古いお茶の本で、お茶をほとんど薬のように、心と体を整えてくれるものとして書いているんです。ちなみにこれは、粉にして茶筅でシャカシャカと点てるお茶。いまの抹茶のご先祖さまですね。
戦国武将の、しずかな部屋
時代は一気に飛んで1500年代。武将たちが各地で争う、ざわざわと落ち着かない世紀です。そんな時代にお茶が芸術になるなんて、ちょっと不思議じゃないですか。でも、まさにそれが起きました。
堺という港町の商人、千利休(1522〜1591)が、お茶の集まりをぐっと削ぎ落としていきます。小さな部屋、飾らない壁、掛け軸が一幅、そしてゆっくりとした所作。その心を利休は「わび」と呼びました。簡素なもの、完璧じゃないものにこそ美しさがある、という考え方です。軍を動かせるほどの武将が、狭い茶室に膝を折って、だまって一碗のお茶を分け合う。利休の茶の湯は本人が亡くなったあとも、子孫が開いた流派に受け継がれて、いまも正式なお点前のかたちを形づくっています。
そのお茶を、みんなのものにした農民
とはいえ、この時点でもまだ、いまわたしたちが思う澄んだ緑のお茶を、多くの人が飲んでいたわけではありません。最後のピースは、一人の農民から生まれました。
1738年、宇治田原という村で、永谷宗円が新しいお茶のつくり方を編み出します。摘みたての葉を蒸して、熱した台の上で手でていねいに揉んで、細く濃い針のように乾かしていく。これをお湯に浸すと、すっきり甘い、緑の一杯になるんです。煎茶ですね。この製法が全国に広がって、ようやく緑茶は、お寺や茶室だけのものではなく、みんなの飲みものになりました。三百年近くたったいまも、日本のふだんのお茶は、基本これと同じつくり方なんです。
つまり、次に注ぐ一杯には、これ全部が畳み込まれているわけです。お坊さんの船旅、健康の本、武将のしずかな部屋、農民の根気づよい手。自販機であたたかいのが買えてしまう飲みものにしては、なかなかの物語だと思いませんか。お茶そのもののお話は、また近いうちに。
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